2023/07/30 14:57
自序――なぜ「大唐後期」を描くのか
著者・唐隠
「唐王朝」と聞いて、(中国人の、あるいは中国史に詳しい)皆様が真っ先に思い浮かべるのは、〝盛世〟という言葉だろう。
「大唐の盛世」、それは極彩色の光を放ち、千載にわたって輝き、永遠に中国人の心を激しく揺さぶる。それは詩、酒、牡丹であり、あるいは長安、侠客、剣豪であり、玄武門前で李世民によって放たれた矢であり、大明宮の武媚娘が再婚の時に零した涙の粒であり、そして国都へ疾走する騎兵が楊貴妃に献上する嶺南のライチだ。
ところが、そのあらゆる豪華絢爛たるイメージは、あの時――「安史の乱」にかき消されてしまう。中国の史書ではあの戦乱を、「唐王朝が繁盛の頂点から転落する転換点」と定義しているほどだ。
しかし、実のところ唐王朝は「安史の乱」の後にもなお百五十年にわたって存続しており、乱は唐滅亡までの二百八十九年の、ちょうど中点なのだ。だが、唐王朝の後半期に対して、我々はどれほどのことを知っているだろうか?
ほとんど白紙のようなものだ。その理由は、おそらく「安史の乱によって繁盛の頂点から転落した」という史書の烙印にあるのだろう。多くの中国人にとって〝盛世〟でなくなった大唐はもはや「大唐」ではなく、追想したり謳歌したりするに値する存在ではない、とみなされてきたのだ。
しかし、本当にそうだろうか?
『大唐懸疑録』シリーズの舞台となっている、憲宗・李純治世下の元和年間(八〇六~八二〇)は、まさに「安史の乱」から半世紀ほど経った「後半期」に当たる。
確かにその頃、大唐帝国は救いようもないほど傾きつつあった。国家の秩序回復はうわべばかりで、皇帝の権威は衰微し、藩鎮勢力が台頭し宦官が跋扈する……大唐の巨軀は穴だらけだった。それは暗闇が深まるばかりの時代だったが、強権のコントロールが失われただけに、様々な勢力と思想が激しくぶつかり合う、奔放な時代とも言えた。
そして〝盛世〟に別れを告げた大唐は、より神秘的でロマンチックな伝奇の時代を迎える。
元和年間に白居易が書いたのが、千古に名を残す『長恨歌』と『琵琶行』だ。彼の親友である元稹は、崔鶯鶯を口説こうとした自身の恥ずかしい経験を、楽しげに『会真記』に記した。
韓愈、柳宗元、劉禹錫は官途に恵まれないながらも、それぞれ、
「雲は秦嶺に横たわりて、家何くにかある。雪は藍関を擁して馬前まず」
「千山鳥飛ぶこと絶え、万径人蹤滅す」
「山は高きに在らず、仙有らば則ち名あり。水は深きに在らず、龍有らば則ち霊あり。斯は是れ陋室にして、惟だ吾が徳のみ馨し」
といった名句を書いた。
女刺客・聶隠娘は後頭部を開かれ、匕首が隠せるようになった。女校書・薛濤は巧みに詩箋を綴った。
名宰相・武元衡が長安の路頭で刺殺されたのも、将軍・李愬が雪夜七十里、兵を引いて蔡州城を奇襲したのも元和年間のことだ。
日本の遣唐使・空海は長安の青龍寺で灌頂を受け、密教の奥義を持って日本に帰った。また、彼は王羲之の書法よりインスピレーションを受け、平仮名を創造したという伝承も残っている。
英明な君主・李純は苦心惨憺し、ほとんど独力で大唐を、歴史上「元和の中興」と呼ばれる――線香花火のように短い――中興へ導いた。その偉業によって、李純はのちに一人の日本人ファンを獲得した。彼――徳川家康の命により、一六一五年に日本は「元和」と改元された。
ということで、私は「元和」を、大いに書くべき時代、追懐して偲ぶべき時代、そして何より、最も精彩を放つ物語を持った時代だと考えている。
それでは、『大唐懸疑録』の世界に飛び込み、私の後に続いて元和時代の大唐――あの義侠心に溢れる、自由で情緒豊かな、それまでと異なる大唐――へ足を進めていただこう!