2018/08/08 05:00

10 見知らぬ男の足跡を追って


 明るい太陽が、ストーンホール・ホテル前の大きな広場を照らしている。広場はにぎやかで、昼間のこの時間にしてはまずまずの人ごみだった。遊歩道が通った広い芝生の植えこみが、ホテルと通りを隔てていた。その道を百ヤードほど先へ行くと、ヘイマーケット通りと交差した。派手なサーモンピンクのスーツを着たオーウェンは植えこみを行ったり来たりしながら、さかんに頭をふっては友人のラルフをせっつき、例の夫婦と出会った状況を詳しく説明させた。ラルフ・ティアニーは辻馬車の一件を何度も繰りかえした末、もう疲れた、我慢の限界だという態度をありありと示した。なにしろオーウェンときたら、友人の意見にはろくに耳を貸そうとしなかったから。近くの銀行で問い合わせてみたらどうかとラルフが提案しても、オーウェンはすげなく断った。運を天にまかせるような調査を習慣にする気はないと豪語して。
「代わりに辻馬車に乗って欲しいと、男があんまり懇願するものだから、ぼくも根負けしてね。男は連れの腕をとり、歩いても大して変わらないと言って立ち去った」
「それは何時ごろだった?」
「二時半くらいだったかな」
「もっと正確にわからないか?」
「そう、二時三十五分だ……ちょっと前に、ビッグベンが二時半を告げるのが聞こえたから」
「いいぞ。意志あるところ、道は開けるだ」
「彼らは足早に立ち去った。奥さんが男の腕を取り、男のほうは大きな包みを抱えていた……」
「大きな包みだって」オーウェンは目を丸くして、驚いたように叫んだ。「どんな包みなんだ。前にはそんな話、してなかったじゃないか。中身はなんだ?」
「わからないな。丹念に包装されていたから」
「包みの形は? 丸い、それとも平べったい?」
「どちらかというと平べったくて、かなり大きかったが……」
「トレイ? 絵? それとも大型の本だろうか?」
 さあね、というようにラルフ・ティアニーは肩をすくめた。オーウェンはあたりを見まわし、銀行の隣にある本屋のショーウィンドを指さした。店に入ると、ラルフは二人の店員に夫婦の外見を伝えた。
「麦わら帽をかぶった、きれいな女性なんだが……男のほうは五十歳くらいだろう。背は中くらいで、白髪まじりの髪をきれいに撫でつけている。仕立てのいいオリーブ色のツイードの上着を着ていたな。表情には乏しかったけれど、真面目そうだった……」
 こんなふうに事細かに説明したものの、成果なしだった。店員は記憶にないという。店を出てヘイマーケットの角まで行くと、オーウェンが額縁屋に気づいた。ラルフがまた説明をしているあいだに、オーウェンは店内を歩きまわり、入念に仕上げた額縁に賞賛の目をむけた。
「ええ、その方たちのことなら覚えていますよ。あれは昼すぎのことでした」
「お知り合いなんですか?」ラルフは心底驚いたような顔をした。
「いえ、店にいらしたのは初めてだと思います。ロンドンにお住まいでもなさそうですし」
「それはどうして?」とオーウェンもたずねる。
「単なる印象です。男の方のものごしが、どことなく田舎臭かったからでしょう。でも、れっきとした紳士でしたよ」
「彼らはなにを買っていったんです?」
「絵の額縁です。サイズは前もってうかがっていました」
「注文で作ったんですか?」
「いえ、ちょうどそのサイズの品がありました。デザインも気に入ったとかで、すぐに買って行かれました」
「名前はひかえてありますか?」
 太った額縁職人は、申しわけなさそうに首を横にふった。
「いえ、現金で払うので、請求書を切る必要はないと言われました。あとから文句をつけることもないからと」
「たしかに」とオーウェンはうなずいた。「あなたのお仕事ぶりなら、そのとおりだ。わたしも個人的に、なにかお願いするかもしれません。ほかになにかお気づきのことは?」
「特にありません」
「彼らの態度については?」
「ありませんね」
「服装は?」
「さっき、お友達の方がおっしゃっていたとおりです。ひとつだけ印象に残ったのは、男の方のゲートルに、うっすらと泥の跡がついていたことです。どうして覚えているかというと、それを除けばお二人の身なりは非の打ちどころがなかったからです」
「ふむ……彼らはどんな絵を入れるつもりなのか言っていましたか?」
「ええ、うかがいました。額縁を選ぶのに必要なことですからと。ニコラ・プッサンの『アルカディアの羊飼い』の複製画だそうです」
「なるほど」オーウェンはその答えを聞いて、満足げに言った。「とても貴重なお話をありがとうございました。では、またいずれ」
 店を出ると、オーウェンはチャリングクロス近くのパブでひと休みしようともちかけた。そこで少し待っていて欲しいと言って、彼はどこかに姿を消した。三十分後、オーウェンはにこやかな表情で戻ってきた。ボタンホールに飾られている新しいカーネーションは、駅前の花売り娘から買ったのだろう。
「お待たせした」彼はウェイターにビールを注文すると、そう言った。「考えをまとめる暇はあったかい?」
「オーウェン」とわたしは声を抑えて言った。「きみはぼくたちに、なにか隠しているんじゃないか……」
「とんでもない。ささやかなわが推理は、いつだって披露してきたじゃないか。ところで今、何時だ? もう十時半? ウェデキンド警部を訪ねる時間だ。警察の捜査も、きっと進んでいるだろう。警部にはやってもらいたい仕事が、ちょっとばかりほかにもあるし」
「どんな仕事を?」
「もちろん、われわれが捜している男についてさ」
「でも、なにを手がかりにして?」とラルフがたずねる。「その男について、ぼくたちはまったく知らないのに」
「プッサンの絵が好きだってこと以外はね」とわたしは茶々を入れた。
「いや、もう少しばかりわかっていることがある」とオーウェンは、カーネーションをなおしながら言った。「彼はお屋敷の主で、ケント州のメイドストーン近くに住んでいる。南に十マイルか、二十マイルのところに。外見に加えてそれだけでもわかれば、警官たちは大助かりだろう。いささか時間がかかるかもしれないが……」
「冗談だろ、オーウェン」とわたしは叫んだ。「手もとのわずかな情報から、そんなことがわかるわけない」
 オーウェンはあきれたようにわたしを見つめた。その目には、隠しがたい軽蔑の色が浮かんでいた。
「わかるさ。なにも特別な術策があるわけじゃない。論理と分別、それだけだ。男の性格についても、いくつかはっきりと言えることがある。感情をあまりおもてにあらわさず、芸術を愛するタイプだが、それは充分あきらかだろう……」
 そのとき、新聞の売り子が通りで叫ぶ声がした。
「号外、号外……ハーバート・ジャンセン卿が昨夜、自殺。悲劇の詳細は本紙をご覧あれ」
「ハーバート・ジャンセン?」ラルフがびっくりしたように言った。「重要人物らしいが、何者なんだ?」
「国会議員さ」オーウェンは席の前を通った売り子に合図しながら答えた。「いちばんの大物と言ってもいいだろう。不幸なジャンセン卿に、いったいなにがあったんだ?」
 オーウェンは興味津々で、すばやく記事に目を通していたが、突然顔を真っ青にして凍りついた。「なんてことだ! まさか、そんな。ほら、アキレス、これを読んでみろ。ジャンセン卿は昨夜、銃で自分の頭を撃ち抜いたんだ。チェルシーの自宅で」
「ああ、そうらしいな」わたしはオーウェンが差し出した新聞を受け取りながら言った。「でも、なにをそんなに驚いているんだ? 第一線に立っていた男が、自ら命を断つのは初めてじゃないだろ?」
「いや、詳しく読んでみろ。卿は机のうえにうつ伏し、倒れこんでいた。ブロンズ製の文鎮に頭をのせて……ローマの雌狼をかたどった文鎮に!」


(立ち読みはここまで)