2018/08/08 04:55

8 ピサの斜塔


 わたしたちはちょうど戻ってきたばかりのフランク・ウェデキンド警部を、彼のオフィスでつかまえることができた。髪はぼさぼさで額に深いしわが刻まれているところを見ると、警部はかなり苛立っているらしい。テムズ川沿いの捜索が、成果をあげなかったのだ。ずっと捜査を続けているのに、今までのところジャック・ラドクリフの手がかりはまったくないと彼は説明した。それからはじっと考えこむばかりで、ジョージ・トッドの事件に関するオーウェンの質問も、耳に入っていないかのようだった。
「ジョージ・トッド?」警部は葉巻に火をつけると、ようやくそう口をひらいた。「金持ちの未亡人を殺して、遺産をそっくり手に入れた男ですよね? ええ、覚えていますとも……まったく卑劣なやつでした。皮肉屋で、傲慢で。でも、犯罪の才にはめぐまれていた。目的達成のためなら、自分より倍も年上の老婦人を誘惑することもためらわずに。もう十年以上も前の事件ですかね?」
「たしかに」とオーウェンはうなずいた。「ぼくもよく覚えてます。初めて傍聴した殺人事件でしたからね。あれはまだ、十七歳のときでした」
「だったら、そこで会っていたかもしれませんな」警部は作り笑いを浮かべて言った。「わたしも出廷していましたから。陪審員が無罪を言い渡したとき、法廷内に失望の波が広がったことも忘れられませんね。やつの有罪には疑問の余地がなかったのに、最後になってどんでん返しが起こった。やつはアリバイを持ち出したんです。いささかたよりないアリバイでしたが、縛り首をまぬがれるには充分な疑いが生じたというわけです。やつは罵声を浴びながら、嘲笑を浮かべて法廷をあとにしました。ポケットに自由へのパスポートを入れて。あれはわが国の司法にとって、悲しむべき日でした」
「だったらあいつがどんな男だったか、よく覚えているでしょうに。しゃれた口ひげを、たえずひねっていたのを」
「たしかに」
 オーウェンはその身ぶりを真似ながら、さらに続けた。
「それに口笛を吹く癖もありました。なにもあわてちゃいないと、わざとらしく示すために」
「そのとおり」
「ぼくはあのメロディを忘れちゃいませんよ」とオーウェンは重々しい口調で言った。「あれは『美しく青きドナウ』でした」
「そうだったかも」
「間違いありませんよ。必要とあれば、ほかにも証人は見つかるでしょう。つまりは、口ひげの先をひねりながら『美しく青きドナウ』のメロディを口笛で吹く、エレガントな男ってわけです……なにか思い出しませんか?」
 ウェデキンド警部は突然、表情を変えた。
「そうか、そういうことか。ベイカーが言ったとおりの人物じゃないか。ピサの斜塔の絵を、じっと見つめていたという」
 警部はそこで突然言葉を切り、目をまん丸に見ひらいた。最初の驚きよりも激しい、第二の衝撃に襲われたかのように。
「ちょっと待ってくれ」彼はそう言うと、荒々しく席を立った。「すぐに確認してみなければ」
 そして呆気に取られているわたしたちを残し、部屋を出ていった。十分後、戻ってきた警部はわたしたちの前に腰をおろすと、目にしわを寄せてしばらくこちらをにらみつけていたが、やがてこう切り出した。
「ベイカーが見たという男は、ジョージ・トッドに間違いない。ただ困ったことに、やつはもう生きていないんです。二年前にオーストリアで死亡しています。山の遭難事故で」
「だったら、ベイカーが目撃した場面にはどういう意味があるんでしょう?」オーウェンはそうたずねると、葉巻からくねくねと立ちのぼる紫煙を見つめた。「あの呪われた裏通りは、本当に過去へ遡ることができるのでしょうか?」
 ウェデキンド警部は怒ったように首を横にふった。
「そんな解釈はとうてい受け入れがたいですな。だが、事実は事実です。ベイカーが見た光景は、そうとしか説明がつきません……ベイカーが目撃した光景は、彼自身はもちろんほかの誰も知らないはずのことなんですから。少なくとも、警視庁のひと握りの者しか。それについては、警視庁犯罪捜査課の課長が、じきじきに打ち明けてくれました。ほかに漏らさないという条件でね。真偽のほどをはっきりさせるため、今会ってきたんです。当時、新聞社が嗅ぎつけていたら、この機を逃さず警視庁に集中砲火を浴びせていたでしょう。それがわたしのところにむかってきたというわけですよ。オーウェンさん、あなたのせいでね。どうやらあなたは、大変な問題に触れてしまったようだ」
「どういうことですか?」
「ピサの斜塔ですよ」
「なんですって?」
「ええ、パンフレットにあったというピサの斜塔です。ベイカーが見たという場面は、実際にあったことなんです。誰も目撃者はいませんが、たしかにあの通りの場面が展開したに違いありません。無罪を言い渡されたあと、勝利に酔いしれ大喜びで自宅に戻ったトッドは、イタリア旅行の準備を始めたんです。ピサへむかう準備を」
 オーウェンは呆気に取られていた。
「たぶん、そういうことだろうとは思っていましたが……どうしてそんなにはっきりと断言できるんです?」
 ウェデキンド警部はオーウェンにむかって小さく紫煙を吐き出すと、こう答えた。
「判決から十日ほどたったころ、ジョージ・トッドは大胆にもわれわれに絵葉書を送ってきました。仕事の労をねぎらい、ますますのご健勝を願うなどと書いた、皮肉たっぷりの葉書をね。われわれを馬鹿にし、司法に対する勝利を誇示しようってわけです。ピサの斜塔が写った絵葉書で、裏にはイタリアの消印が押されていました。もうおわかりでしょう、これはベイカーの証言が正しいことを裏づけているんです。つまりは、あの路地の信じがたい力を」

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