2018/08/08 04:36

6 失われた裏通りを求めて

 わたしは犯罪調査のため、ロンドンのうらぶれた地区をオーウェンと何度も訪れたことがある。曲がりくねった路地をいくつも歩きまわり、数多くの袋小路、日あたりの悪い裏庭を調べた。あばら家のドアをノックし、酔っぱらった乱暴者や女たち、見るからに貧しげ、痩せこけた顔の子供たちから話を聞いたこともある。とりわけ夜になると、わたしたちの調査は危険を伴うこともあった。けれどもその朝、オーウェンといっしょにラルフのあとについて、奇怪な路地を探しに出かけたときほど激しい不安を感じたことはなかった。いつもなら、敵の正体はつかめている。わたしたちが行方を追っているのは、必死に逃れようと策を弄する極悪人たちだが、それとてしょせんは生身の人間だ。けれども今日、わたしたちが探し求めているのは、なにやら得体のしれない場所だった。勝手に動きまわっては消え失せる路地、時間と空間のなかを行き来する裏通りなのだ……
 まだ朝霧の冷気と湿気が残る陰気な路地を歩いていると、自分でも怖気だつのがわかった。めったなことでは動じないオーウェンも、こんな奇怪な事件にはとまどっているようだ。わたしたちはみすぼらしい家並みや、がらんとしたポーチ、どこまでも続く黒く煤けたレンガ塀に視線を走らせた。なにか奇跡でも起こって、塀のあいだに突然裂け目が生じやしないかと、わたしたちは心密かに身がまえていた。ひらいた口のむこうには、通りの隅に掲示板が立っていて、反対側には居酒屋がある。そのわきには、青い琺瑯引きの標示板に、白い文字でこう書いてあるだろう。《クラーケン・ストリート、あやかしの通り》と。
 わたしたちは一時間前に、ウェデキンド警部のもとを辞去した。話し合いを切りあげねばならない時間になったからだ。テムズ川でラドクリフの遺体を探すのには、警部の立ち合いが必要だった。
「ロンドンっていうのは、とんでもない町さ」とオーウェン・バーンズは、ロンドン警視庁を出るなり言った。「とんでもない出来事が起こる、とんでもない町だ。違うと言い張るのは、無知な愚か者だけさ」
「まったくもって、そのとおり」とわたしは、いささか皮肉を込めてうなずいた。
「今日は一日、忙しくなるぞ。ラルフにはまず、災難の現場を捜してもらおう。それからぼくは、友人で地図作りをしている男のところへ寄ってみる。ロンドンの町のことなら、誰よりもよく知っているからな。例の路地について、彼にもはっきりとしたことがわからなかったら、ほかにたずねるべき人間はいないだろうよ」オーウェンはチョッキのポケットから懐中時計を取り出し、もの思わしげに時間を確かめた。「まだ九時半だ……早すぎるな。ラルフが昨日、たまたま行きついたオールド・ストリートの店で、紅茶でも飲まないか?」

 わたしたちはその場を離れ、ほとんどでたらめに歩き始めた。ラルフは最初の交差点で、早くも迷いだしたからだ。二番目の交差点では、家も路地のみんなよく似ているのでわからないと言った。三番目の交差点ではただ肩をすくめ、てきとうな方向を指さした。
「かえすがえすも残念だな。路地の入口にあった居酒屋の名前を、きみが憶えていなかったのは」オーウェンは突き出た舗石につまずいたのが気に入らなかったのか、非難がましい口調で言った。
「まあ、たしかに……」
「無意識のうちに、記憶してるのでは?」
「無理だろうな。明るく光るガラス窓が、闇のなかで逆光になっていたから」
「これまで見かけた五軒は、どれもその店と似ていたのか?」
「いや、入り口のドアが斜めについている三軒だけだ。ぼくが見かけたドアも、そうなっていたからな。そもそもはっきり覚えているのは、その点だけだし」
「でも」とオーウェンはため息まじりに言った。「それだけじゃあ、手がかりとして不充分だろう。居酒屋の入り口は、たいていそうなっているからな。そんな店、この界隈には何十軒とある」
「目印なら、ポスターもあるじゃないか」とわたしは口を挟んだ。「その二つがそろえば、間違いない。ポスターについては、なにも覚えていないのかい?」
「どうだろうな。とても鮮やかな色だったが、記憶に残っているのはそれくらいだ。たぶん、もう一度見れば……」
「そいつはいまのところ、考えてもしかたない」とオーウェンがさえぎった。「むかいにポスターが張ってある居酒屋なんて、一軒もなかったんだから。ほかに気がついた点はないか? あばら家の入り口については?」
「いや、なにもないな。ここいらの家は、どれもみんなよく似ているし」
「表通りはどうだ?」
「はっきりとは言えないが」ラルフは困ったようにあたりを見まわしながら答えた。「ポスターと同じように、もういちど見れば、おそらく……」
 さらに一時間ほど歩いてみたものの、ラルフがはっと気づくようなことはなにもなかった。オーウェンが言うには、われわれは疑わしい地域のせいぜい十分の一しか調べていないのだそうだ。ラルフの印象にもとづき、適当に見てまわっただけだったし、ローラー作戦でしらみつぶしにやっていかないと、成果が得られないだろう。
 骨折り損だったと落胆しながら、わたしたちは中心街へ戻った。ストーンホール・ホテルで昼食をとったあと、ラルフは大使館へ行った。残されたわたしとオーウェンは、まだ奇妙な謎とつき合わねばならなかった。
「彼も今回の出来事には、ずいぶん当惑しているようだな」わたしは友人が広げた箱から葉巻を一本取ると、そう言った。
「きみは違うのか、アキレス?」
「そりゃ、ぼくだって。でも、ぼくたちは慣れているからな。そこが違うさ」
 オーウェンは微笑んだ。
「でも、われらがラルフを見くびっちゃいけない。あいつはなかなかすごいやつなんだ。そんじょそこらではお目にかかれないほどね。あいつに出し抜かれた、苦い経験もあるくらいだ」
「ははあ、かわいい女の子をかっさらわれたとか……」
「そうじゃないさ、アキレス。チェッカーのゲームの話さ。まったく、どうしてきみはいつもそう、根性がひねくれているんだろうな。ぼくとつき合っているせいだろうか?」
「大いにありうるな」
 オーウェンはフロントに鍵をもらいにきた魅力的な女性を目で追いながら、ふうっとため息をついた。
「あんまり過剰な期待は、しないでもらいたいな、アキレス。ぼくはできることをするだけだ。どんなことにも完璧はない。もっとも偉大な審美家でも。ぼくが周囲に施す数多くの善行にも、一抹の悪意はつねに含まれているんだ。とりわけ今、目の前にいるすばらしい妖精を眺めているときには」
「目下、関わっている事件に集中したほうがいいぜ。ところで、まだきみの第一印象を聞かせてもらってないが」
 ダンディな探偵の顔に、引きつった笑いがかすかに浮かんだ。しばらく考えたあと、彼はもったいぶった口調で言った。
「犯罪の陰に女ありだ……」
「天国に導いてくれる、赤いケープの女かい?」
「それもなかのひとりだ。だが、その女を見つけるのは容易じゃないぞ。まずはウェデキンド警部から借りたファイルに目を通すことにしよう。さっきめくっていたら、不運なベイカーの娘の写真もあったし。なかなか魅力的な顔をしてたぞ……」
「だったらまっ先に、ベイカーの娘に話を聞かなくちゃな」
「もちろんさ。哀れな父親は、重要な証言を残しているはずだ。だが、まずはエリー・パスモアと話してみなくては。この時間なら、店を開けているはずだ」
 オーウェンの友人で地図製作をしている男の店は、シティーの狭い裏通りにあった。埃っぽい窓ガラスから射しこむわずかな陽光が、ところ狭しと部屋に積まれた地図帳や、古い怪しげな革装本の背を金色に輝かせている。エリー・パスモアは背中の曲がった老人で、まるで店にある本すべてを生涯背負い続けてきたかのようだった。尖ったわし鼻、灰色の長いあごひげ、丸眼鏡の裏できょろきょろと動く目。声はかすれかけているけれど、話の中味はしっかりしている。
「クラーケン・ストリートねえ」パスモアはオーウェンの質問に答える代わりに、まずはそう繰り返した。「ああ、もちろん聞いたことはある。なんの新聞だったか、たしか記事ものっていたな……」
「《タイムズ》ですよ。去年の」
「そうそう。記者は少しばかりオーバーに書いていたがね」
「ほかになにか教えていただけますか」オーウェンは待ちきれない思いを隠せずに、そうたずねた。「その路地がどこにあるのかとか」
 老人は眼鏡をはずし、微笑んだ。
「いや、最後の点については難しいな。あの地域の小路につけられていた名前は、正式のものじゃないんだ。それにわしの知る限り、正確な地図も作られなかった。やがて大火事が出て、いうなれば問題はいっきに解決した。いつかそうなるだろうと、予想されていたことだろうがね。空き地になった場所には、どっと人が移り住んできたが、それに関する論文が一冊だけ、手もとにあるよ。通りの名前をいくつか調査し、場合によってはコメントも添えてある。たしかクラーケン・ストリートについても、言及されていたはずだ。そうそう、間違いない」老人はそうつけ加えて、頭のうしろをぼりぼりと搔いた。「さもなければ、そんな通りについて聞いたはずないから」
「その論文は、今ここにあるんですか?」
「ああ、どこかにな」老人はそう答えて、あたりをぐるりと見まわした。「だが、この散らかりようだからな。捜すとなると、大仕事だぞ」
「時間ならありますから」オーウェンはカウンターをとんとんと指で叩きながら言った。
 エリー・パスモアはいまにも崩れ落ちそうなほど積みあげた棚をひっかきまわしながら、息子についての思い出話やら愚痴やらを交えて、通りについて話し続けた。
「せがれはヴィクターっていうんだが、ここにある本については、哀れな父親に劣らず気がかりらしい……わしは全力を尽くし、わが情熱をせがれに伝えたんだが。いやはや、せがれはわしの言うことには、なにからなにまで反対する。ありゃもう、条件反射みたいなものだな。困ったもんだ……そうそう、家々のあいだに入りこむ大蛇の話は大げさだが、恐怖をまき散らして多くの犠牲者を生む神話の怪物の名がとられたのは、故なしとはしない。なにしろあの路地からは、たくさんの犠牲者が……やれやれ、見つからんな。どこへいっちまったんだ? ヴィクターが持ち出してなきゃいいんだが。さもないと、本の行方は神のみぞ知るだ。でも、ありえんことじゃないな。たしかあれには、恐ろしい海獣の絵が入ってきたからな。ヴィクターは船乗りになるのが夢だったんだ。ジュール・ヴェルヌの本を読んで以来、巨大イカと闘いたいなんて言い出して……だが、わしの記憶がたしかなら、あの路地は魔法のように消え失せるだけでなく、ほかにも不思議な特徴があったはずだ……ああ、ようやく出てきたぞ。これぞ呪われた本だ」
 エリー・パスモアはスツールからおりて、カウンターのうえに薄い冊子を置いた。そしてページをぱらぱらめくり、目あての個所を見つけた。怪物の絵があるので、すぐにわかったのだろう。
「クラーケン・ストリート。これだ。なかなか暗示的な、すばらしい挿絵じゃないか。残念ながら、説明はほとんどないようだが」
 パスモアは眼鏡をかけ直し、黄ばんだページのうえに身をのり出した。わたしたちもそれにならった。
「ふむ、心配したとおりだ」と彼は言葉を続けた。「場所について、詳しい記述はなにもない。クラーケンウェル地区の北東だというだけで。そのほかのことは、自分で読んでもらえれば……」

 ……この路地は目に見えないという噂は、おそらくそこで起こった突飛な出来事から生まれたのだろう。そうした奇妙な出来事に恐れをなした住民の多くが、さっさとこの路地から出ていった。そうした現象を信じまいとする人々は、路地そのものの存在までも必死に否定するようになった。この路地が消失すると言われるのも、もとをただせばそんなところに謎解きの鍵があるのではないか。しかしこの路地は時間と空間を自由に行き来できるのだと、きっぱり断言する者もいた。そして路地を訪れる人々に、過去や未来の記憶の断片を見せるのだと。この路地は過去を読み取り、未来を予言できるのだという。路地が人々に見せる幻影については、多くの証言が残されている……


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