2018/08/08 04:34

5 地獄の怪物

 わたしたち三人が、呆気に取られて顔を見合わせているあいだに、ウェデキンド警部は黄色いファイルをひらき、ページをめくり始めた。
「そうしたいくつかの事件は結びついているのではないか、われわれがそう考えたのはごく最近のことでした。ですから、捜査はほとんど進んでいません。いちばん新しい事件は、先月のことです。犯罪とも言えないような、ばかばかしい出来事だったので、誰も真剣に取り合いませんでした。郊外の教区で司祭をしているジェレミー・スチールなる男が、九月二十三日の夜、ホワイトチャペルの警察署に訴え出たのです。彼のことはみんな口をそろえて変わり者だと言いますし、その日は明らかに普通ではありませんでした。結局スチールはロンドン病院に、さらに精神病院へ送られました。当初、彼の話を誰も信じませんでした。謎めいた待ち合わせにより見知らぬ場所へ迷いこみ、奇怪な場面を目撃したというのです。それはひとりの男が、ロシアンルーレットをしている場面でした。やがて彼は知らない男に手足を縛られ、銃で脅されました。数日前、調書を読み返していた捜査官の注意を引きつけたのは、事件の舞台となった通りの名前でした。クラーケン・ストリート。今ではもう存在しない通りで、証人によれば忽然と消え失せてしまったというのです。その通りについて、少し前にも別の事件で言及されていたことを、捜査官は覚えていました。
 九月の初め、シルヴィア・ベイカーという若い女がわれわれのところにやって来て、父親のバジル・ベイカーが行方不明になったと訴え出ました。バジルはアル中患者で、娘とはもう暮らしていませんでした。彼が最後に目撃されたのは八月二十六日、キングス・アームズにある行きつけのパブで、いつもの飲み仲間といっしょでした。彼らの証言で、やはり捜査官たちの注意を引くことがありました。その数日前、件のバシル・ベイカーは見知らぬ場所へ行き、そこで奇妙な出来事を目にした。なかでも驚いたのは、路地が消えてしまったことだというのです。バジルは酒場で仲間たちにえんえんと熱弁を奮い、いずれ路地に戻って真相を明るみに出すつもりだと語っていたそうです。それ以来、彼を見かけたものはいません。捜査官も飲み仲間たちも、どうせアル中の妄想だと思っていました。そのうち彼の溺死体が見つかるだろう。きっと酒場を出たところで、近くのドックに落っこちてしまったんだとね。ところが問題の路地の名は、やはりクラーケン・ストリートだったのです……
 そんなわけでわれわれは、近隣で最近に起きた行方不明事件をすべて洗いなおしました。去る二月、若いペンキ屋の行方不明届け出されていました。友人たちによると、彼は姿を消す前日、クラーケン・ストリートで怪しげな待ち合わせをしていたのだそうです。でも間接的な情報でもあり、それ以上のことはわかりませんでした……」
「ちょっと待ってください」とオーウェンは思案げに指を唇にあてながら、口を挟んだ。「その通りは、今ではもう存在しないとおっしゃいましたよね。ということはつまり、かつては存在していたんですか?」
「そのとおり」とウェデキンド警部は、謎めいた笑みを浮かべながら答えた。「バーンズさん、目つきでわかりますよ。その点がとても気にかかるんですね」
「まさしく。ぼくの持っているもっと古いロンドンの地図にも、クラーケン・ストリートはのっていなかったんでね」
「われわれも、ようやくその痕跡を見つけ出したんです。とても昔まで遡らねばなりませんでしたが。われわれが取りあげた最後の事件のなかで、その点について触れられています。時間的な順番からすれば、それが最初の事件なんですが」
「ぼくがこんなことをたずねるのも、存在しない名前の通りに、みんなどうやって行けたのかが不思議だからです。目隠しして連れて行かれたとか?」
「いいえ、地図を渡されたんです。少なくとも、バジル・ベイカーと司祭の場合はね。ほかの人についてはわかりません。なぐり書きしたような地図で、文字どおり宝探しゲームをするようなものでしたが。残念ながら被害者の手もとには、もうその地図はありませんでした。でもファイルに詳しく記されていますから、ご覧になってください。ティアニーさんの事件とは、ほかにも気にかかる共通点がいくつも見られるとおわかりになるでしょう。赤いケープの女や、あとの二人のおかしな男についてもファイルには記載があります。ジェレミー・スチール司祭から、直接話を聞いてもいいですし。おかしな事件の後遺症が、まだ残っていますがね」
「だったら路地の場所は突きとめられたのでは?」
「いいえ、それがはっきりとは定まらないんです。大まかな地域は、ショーディッチからクラーケンウェルのあたりだろうとわかるんですが。それはティアニーさんの証言とも一致するようです。でもほら、この《タイムズ》紙の記事に目をとおしてみてください」警部はそう言って、ファイルから新聞記事の切り抜きを取り出した。「これを見つけたときは、執筆した記者に聞けばいろいろわかるだろうと期待したのですが、残念ながら彼もそれ以上のことはほとんど知りませんでした。記者のクラーケン・ストリートに関する情報源は、古くから伝わる噂にありました。近くのパブで出会った老人から聞いたそうですが、その老人はもう亡くなっています。これまでわれわれが拾い集めたのは、地元の人々のあいまいな記憶の断片にすぎません。奇妙な噂のある路地について、ぼんやりと覚えている者はいるものの、詳しいことはもうわかりませんでした。公式の記録によれば、路地の存在は三世紀以上も前に遡ります。当時、ロンドンのこの地区は、踏み固められた土道の路地が縦横に走る迷路でした。そこに木で造った惨めなあばら家が立ち並んでいたのです。ところが大火事によってすべてが焼き払われ、今日ではもう正確な位置は突きとめられません。もちろんわれわれも、詳しい調査は続けたのですが、今のところ成果なしです」
「あやかしの裏通りに新たな犠牲者」という記事のタイトルを見て、記憶がよみがえった。そういえばわたしも前にこの突飛な記事を読んで、あとでオーウェンに教えてやろうと思ったのだった。当時、わが友はスイスへヴァカンスに出かけていたので、それきりになってしまったが。その事件は一年近く前の、一九〇一年十一月二十二日に起きた。数人の男たちがホルボーンの居酒屋に集まり、酒を酌み交わしていた。彼らは店を出ると、家で飲みなおそうということになり、なかのひとりが住むリヴァプール・ストリート駅の近くへとむかった。骨董屋を営むリチャード・ヨークは、集まったメンバーのなかでもとりわけ内気でもの静かだったので、ほろ酔い気分の仲間たちは目的地に着いて初めて、彼がいないことに気づいた。骨董屋は結局見つからなかった。新聞記者はこれでもかというほど大仰な表現で、記事を締めくくっている。

《……こうして途中、リチャード・ヨークは姿を消したのだった。まるで夜に吞みこまれたかのように。ここで指摘しておかねばならないのは、この奇妙な失踪事件が起きたのは、呪われた古い地区だということである。そこにはかつて、不気味なクラーケン・ストリートが通っていた。不思議な力を持つと言われる裏通り。住人たちも不安に駆られ、次々に立ち去った。この通りは通行人の目の前で、忽然と消え失せることもあるという。この通りを、巨大な蛇に例える者もいた。なるほど、さすれば伝説の大海蛇クラーケンという名の由来も合点がいく。地獄からあらわれ出た怪物が、家々のあいだでとぐろを巻き犠牲者を求めてあらわれる。夜、あの界隈に出かけるのはやめたほうがいい。恐ろしい路地に不意を襲われ、闇の彼方に連れ去られるかもしれないから。おそらくそれが、あの晩、リチャード・ヨークの身に起きたことなのである……》


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