2018/08/08 04:30

4 昔の事件

 再び沈黙が続いた。不安に満ちた、重苦しい沈黙が。オーウェンはそれを破って、いきなり大声で笑い出した。
「いや、ラルフ、とうてい信じられないな、そんな話。冗談にもほどがある。白状しろ。友達と組んで、一杯食わせようとしたんだろ?」
「本当に、ぼくが噓をついているように見えるかい?」とラルフはたずねた。その顔には、疲労の色がありありと浮かんでいる。
 オーウェンはしばらくじっと考えていたが、やがて首を横にふった。
「いや、たしかに噓じゃないようだ。だったら、夢でも見ていたんだろう」
「ぼくだって、できればそう思いたいさ」
「一時的な幻覚に襲われたのか、誰かにかつがれたのか、ほかにはありえない。小路が一瞬のうちに、どこかへ行ってしまうわけないからな。そうだろ?」
「ああ、でも話したとおりに間違いない」
「だったら、距離の感覚がおかしくなっていたのかもしれない。思ったより長く歩いたんだろう。塀がたっていたと言ったけれど、そのあたりにはほかに路地はなかったのか?」
「いや、もちろんあるさ。でも、あの路地は消えてしまった」
「どうして、そんなにきっぱりと言いきれるんだ。路地なんてどれも区別がつかんだろう。とりわけ、夜には」
「信じてくれ。よく探したんだ。勘違いかもしれないとも思った。なにしろぼくは、ひどい状態だったからね。路地の場所が、二、三十メートル以上も違っているはずがない。それでも念のために捜索範囲を広げ、通りのそちら側の路地を三、四本調べてみたけれど、成果なしだった。クラーケン・ストリートはどこにもない。赤いケープの女や盲目のブドウ売り、それにいかれ頭も消えてしまった」
「いたずらの臭いがぷんぷんするが」とオーウェンは言った。「何者かがきみをだまそうと、通りの名前を記した標示板を動かしただけのことさ」
「実のところ、あんまりびっくりしていたから、標示板で通りの名前をたしかめようなんて思いもしなかったさ。路地の入り口には、わかりやすい目印が二つもあったし。ひとつは左側の掲示板だ。けばけばしい色のポスターのせいで、よく覚えていた……」
「掲示板なんて、いくら大きくても簡単にはずせるさ」
「たしかに。でも、居酒屋となるとそうはいかない。右の角には、明かりがこうこうと灯った店がたしかにあった。あれは作りものなんかじゃない。なかには客がたくさんいて、がやがやというざわめきも聞こえた。それがそっくり消えてしまったんだ」
 オーウェンは返事がわりに顔をしかめた。
「角に居酒屋もなければ、通り沿いにもずっとほかに店はなかった」とラルフは続けた。「何度も言うけれど、路地の入り口だったところには、レンガの塀がたっているだけだったんだ」
「それできみはどうした?」
「気味が悪くなってきたので、さっさと立ち去ったさ。しばらく歩くと、あいている別のパブに行きあたった。そこで気つけがわりに一杯ひっかけ、通りがかった辻馬車をひろって……」
「それはどこだった?」
「オールド・ストリートだ」
「ずいぶん遠くまで行ったんだな」オーウェンは目を閉じ、細い紫煙をくゆらせながら言った。「わが家からはだいぶ離れている。そこから災厄の舞台まで、戻る道筋はわかりそうか?」
 ラルフはうんざりしたようにため息をついた。
「なんとも言えないが、やるだけやってみよう……ともかくぼくは、辻馬車でホテルまで戻った。心底疲れきり、脳味噌は興奮のあまり沸騰状態だった。目の前で繰り広げられたあの奇怪な光景には、どんな意味があるのだろう? 路地がまるまる一本消えてしまうなんて、いったいどうすればありうるんだ? 待ち合わせの時間はとっくにすぎてしまった。でも、もつれた謎を解きほぐすきみの腕前は忘れていなかった。だから夜も遅かったけれど、すぐさまここへ来ることにしたんだ。そこでぼくはホテルを出て、夜道を歩き始めた。あの奇妙な出来事のことで頭がいっぱいで、警察相手のいざこざは忘れていた。でも、それが大失敗だった……ペル・メル通りで警備にあたっていた警官に、またしても呼びとめられたんだ。ぼくはあわてて立ち去ろうとした。すると警官は夕方と同じようにぼくを捕まえようと、仲間に応援をたのんだ。今度は追跡劇も、ずっと短くてすんだ。どこに逃げこめばいいか、獲物はよくわかっていたからね。ぼくはセント・ジェイムズ・スクエアの位置を、地図でしっかりたしかめておいた。だからやつらの手をすり抜け、きみの家の軒先に滑りこんだというわけさ。それからのことは、知ってのとおり……」
「驚いたな」オーウェンは沈黙のあとにぼそりと言った。「まったく信じられん。荒唐無稽な話はこれまでいくつも聞いたことがあるが、こいつはまったくきわめつけだ」
 彼はまなじりを決してやおら立ちあがると、壁面を埋め尽くす書棚にむかい、大判の地図帳の前で足をとめた。
「いいだろう。まずなすべきは、場所を突きとめることだ。クラーケン・ストリートなんて聞いたことがないが、ともかく確認してみよう。おや、アキレス、なにか言いたげだが」
「ぼくは前にどこかで読んだような気がするんだ……」
「その路地について?」
「よくは覚えていないが、なんでもそこでは人が消えてしまうのだとか。たしか新聞記事だったな。残念ながら、当時は三面記事を追いかけている暇がなくってね。きみが留守のあいだは、ウェッジウッドの店の経営に専念していたから」
「クラーケン、クラーケン・ストリートと」オーウェンはそう繰り返しながら、地図の索引を人さし指で追った。「ここには見あたらないな……それじゃあ、こちらの地図はどうだろう。ぼくが持っているなかでは、いちばん古いものだが。いや、やはり出ていない。なあおい、ラルフ、わかっただろ。消えてしまったというその通りは、もともと存在していないか、少なくとも一世紀以上前から存在していなかったんだ」
 ラルフはうなだれてこう答えた。
「なんと言ったらいいのか……」
「ほかにもいろいろ調べてみることはできる。もちろん、それはするつもり。だが、この問題にどう手をつけたらいいのかは、すでに考えがある。支離滅裂な問題というか、互いに無関係な一連の馬鹿げた出来事にね。きみの身にふりかかった誤解についてはさておき、奇妙な三人の人物、奇怪な裏通り、見た目といい中身といい異様な犯行の場面にも。そういや、女にナイフで刺された男には、見覚えがあるような気がすると言っていたが……」
「ああ、あとで気づいたのだが、今日の午後、辻馬車を呼びとめたときに出会った男だったんだ」
「単に似ていただけなのか、それとも同じ男だったと?」
「同じ男だ。でも、もっと若かったな。半分くらいの歳だろう」
「それはまた、奇妙なことだ」オーウェンは資料を丹念に片づけながら言った。「すると男を刺したのは、昼間彼といっしょにいた女かい? きみが大いに感銘を受けたという」
 ラルフはきっぱりと首を横にふった。
「いや、窓のむこうにいたのは、スラブ系の女だった。美しきジプシー女とでも言おうか、見るからに気性が激しそうだったよ。昼間、ホテルの前で出会った女性はブロンドで、もっと落ち着いていたな。いかにもイギリス的で……」
 オーウェンはしたり顔で笑いながらうなずき、肘掛け椅子にゆったりと腰を落ち着けた。彼は額に手をあて、しばらく目を閉じていたが、やがてこう言った。
「いたずらという可能性も、これでなくなりそうだな。その夫妻も共犯でない限りは。でも、なんの目的でそんなことするんだ。ラルフ、敵に心あたりは?」
「アメリカでは、まわりにぼくを恨んでいる人間なんかいるとは思えないな。それにここイギリスでは、きみや大使館の何人かをのぞけば、知り合いもまったくいないくらいだし」
「先ほどの証言どおりなら、きみは昔あった出来事を目撃したらしい。しかもそれは、数時間前に偶然見かけた人物にかかわる事件だった」
「ああ、たしかに」
「だとすると、ぼくが思いつく説明はただひとつ。きみはその二人に出会ったあと、夢を見たんだ。あんまり神経が疲れていたので、無意識のうちにそんな話を頭のなかにでっちあげた。きみがライバル視した男を亡き者にし、その妻を手に入れたいと思って……」
「夢なんかじゃない。信じてくれ、オーウェン」
「もちろん、信じるさ」とわが友は天井を見つめながら、きっぱりと答えた。「信じるとも。まさにこの話が、今まで聞いたことがないほど信じがたいからこそ」
 オーウェンの言葉をしめくくりに、その晩はおひらきとなった。オーウェンは友人をホテルまで送っていき、わたしは自宅に戻った。わたしたちは翌日早々に待ち合わせ、ロンドン警視庁のウェデキンド警部に会うことにして別れた。
 
             ***
             
 フランク・ウェデキンド警部は忍耐力の鑑だった。もじゃもじゃの眉や黒々とした髪、両端が長くたれた口ひげは、一見してなかなか印象的だ。なにをするにも慌てず騒がず、人の話にはじっくり耳を傾けた。山ほど仕事を抱えながら、どんな状況でも落ち着きはらっている。彼がいつもの慎みを忘れ、ついつい取り乱してしまうたったひとりの相手が、オーウェン・バーンズだった。この男ときたら、なにをしでかすかわからない。彼が関わる事件同様、面食らうことばかりなのだ。それでも警部はオーウェンの力を高く買っていたので、彼の助けなしですまそうとは思わなかった。
 その朝、警部はわたしたちの話を、例によって忍耐強く聞いていた。けれどもどことなく、普段より緊張しているようだ。昨晩はほとんど寝ていないんだ、と警部は打ち明けた。ラルフは昨日の出来事を語ったあと、パスポートを取り出して警部の前に広げた。それから、いつでも責任をもって身元保証をしてくれるアメリカ大使館員の連絡先をいくつか教え、取り急ぎ指紋を取って欲しいと申し出た。
 ラルフがあんまりむきになるものだから、警部は思わず笑ってしまった。
「ご安心ください、ティアニーさん」と彼は言った。「もうなにも心配は要りません。誤解があったことはまことに遺憾ですが、われわれも被害者なんです。おかげで、危うく犯人を取り逃がすところでしたから。部下の警官たちは最初にあなたに気づいたとき、二手に分かれましてね。そのせいで、あなたの行方もラドクリフの行方も見失ってしまったんです。ご存知のように、二度目もあなたにまかれてしまいました。でもその二時間後、われわれはブラックフライアーズ橋でラドクリフを追いつめました。やつは捕まるより、テムズ川に飛びこむことを選びましたがね。おそらくそこで、溺れ死んだでしょう。いまのところ、まだ遺体は見つかっていませんが、本格的な捜索はこれから始まります。だから心配する理由は、もうまったくありません」
 ラルフは深いため息をついた。
「おかげでほっとしました、警部さん」
「その件については、よくわかりました。でももう一方の事件については、残念ながら話が別です。いや、本当に運がよかったと言うべきでしょうね」
「よくわかりませんが」
 ウェデキンドは悠然と葉巻に火をつけ、うしろをふり返って壁のキャビネットをあけた。黄色いファイルを取り出し、机のうえに置く。そしてオーウェンのほうへむきなおり、挑戦的な表情でこう言った。
「実はですね、バーンズさん、あの呪われた路地の犠牲者は、あなたのお友達が最初ではないんです。現在まで、ほかにも四人いましてね。しかも実際には、それだけにとどまらないのかもしれません。四人のうち二人はそこに入ったまま、出てくることがありませんでした。三人目は路地を調べて、命を落としました。しかし彼は友人たちに、あらかじめこう伝えていたそうです。ロンドンのどこかに、忽然とあらわれまた姿を消す裏通りがあり、そこではなにか不思議なことが起こるのだと。四人目は路地から抜け出すことができたものの、精神に変調をきたしてしまいました。ティアニーさん、あなたと同じようにその人物も、路地がまるで魔法みたいに、一瞬のうちに消えるのを目撃したんです……」


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