2018/08/08 04:28

3 不思議な消滅

「窓にはおかしな光が灯っていた」とラルフは、思い出しても恐ろしいとでもいうように顔を歪めて続けた。「この世のものとは思えない乳白色の光が、どこか遠くから射しているんだ……わかってるさ。そのとき、さっさと逃げるべきだったって。こんなあばら家に入るべきじゃなかった。そもそも、この裏通りに足を踏み入れるべきでもなかった。好奇心に負けて、赤いケープの女の言いなりになんかなることなかったんだって。でも、必死に走りまわって疲れきっていたし、興味津々で引き返せなかった。なんだか、ぼくのまわりで部屋じゅうが揺れ動いているような気がする。そんな感じがいっそう強くなった。ぼくはひらいた窓に近づき、外に身をのり出した。すると頭がくらくらするような、奇妙な感覚に襲われた」
「窓から身をのり出したら、めまいがしてもあたりまえでは?」わたしは勢いよく燃える暖炉に近寄りながら口を挟んだ。
「そうかもしれないが、なんだか目の前に深い淵があるような、虚空が広がっているような気がしたんだ……外は真っ暗で、ようすはぜんぜんつかめない。むかいの窓は小さなトンネルのむこう端にあるみたいに、やけに遠く感じられた。ぼんやりと光る濃霧のせいで、視覚がどうかしていたんだろう……」
 オーウェンは指先をこめかみにあて、じっと考えこんでいたが、いきなり立ちあがった。
「おい、ラルフ、真面目に話しているのか? それとも、ぜんぶ作り話なのでは?」
「にわかに信じられないだろうとは思っていたさ」とラルフはため息まじりに答えた。
「はっきり言ってきみの話は、どんどん荒唐無稽になっていくぞ」
「でも、まだ先があるんだ。いろんな出来事が続いたせいで、たしかにぼくの感覚は、いささかおかしくなっていたかもしれない。かすんだ目には、ありもしない夢みたいな世界が映り、床や壁が難破船のように揺れていると思いこんでしまったのかも。でも、目の前で繰り広げられた光景は記憶に焼きついている。霧のヴェールが晴れると、ちょうどむかいの部屋が窓越しに見えた。ぼくのいる部屋より豪華な装飾が施されてる。細かいところは覚えていないけれど、なんというか……どうもあの場所にそぐわないんだ。やけに古めかしい感じがして。部屋に入ってきた男は燕尾服を着ているし、広げた新聞には絵入りの三面記事が載っている。そんな新聞、今ではほとんど見かけないっていうのに。やがて女がやって来ると、男はすぐに新聞をたたんだ。黒髪を長くのばした、とてもきれいな若い女で、フォーマルドレスを着ていた。二人はなにやら口論を始め、たちまち激しい言い争いにエスカレートしていった。女は嫉妬で見さかいをなくしているらしく、男を口汚く罵った」
「二人の声が聞こえたのか?」
「ああ、はっきりとではないけれど。妙に響いて聞き取りにくいんだ。女は引き出しからナイフを取り出し、男にふりかざした。男はあとずさりしようとしたが、間に合わなかった。ナイフが男の背中にぐさりと刺さるのが、はっきりと見えたよ。やがてあたりはまた霧に包まれ、部屋のようすはわからなくなった。でもそれは、ほんの一瞬のことだった。床にぐったりと倒れているのが見えた。大きな水瓶のわきに……それはあの女だった。カールした美しい黒髪が床に広がっている。そのかたわらに、誰かが立っていた……」
「連れの男か?」
「たぶん、そうだろう。でも、断言はできない。ぼくの目は、ぴくりとも動かない哀れな女に釘づけだった。明かりがだんだん弱まり、そしてあたりは真っ暗になった。ぼくはしばらくのあいだ、呆然とたたずんでいた。わが目が信じられず、どうしたらいいのか心を決めかねていた。大声で呼びかけてみたけれど、返事はなかった。男の顔にはどことなく見覚えがあるような気がしたけれど、すぐには思い出さなかった。しかし、いつまでもあれこれ考えてはいられない。そのときはもう、ホテルに戻ることしか頭になかった。ホテルの部屋でゆっくり休み、こんな悪夢のような事件は忘れよう。ぼくは手探りで引き返した。らせん階段をおり、家を出ると……」
「盲目の男と、赤いケープの女は姿を消していたと?」わたしはそう言ってみた。
「いや、二人はあいかわらず、同じ場所に立っていたよ。ヴィヴィアーヌは精一杯の愛想笑いを浮かべ、体調は大丈夫かとあわててたずねた。男のほうは、まだしつこく商売文句を繰り返している。
『おいしいブドウが安いよ……ロンドンいちおいしいブドウが……ひと袋五シリングだよ……』
『あらまあ、お元気なこと』とヴィヴィアーヌは叫んだ。『思ったより早く立ちなおったじゃないの』
『よく考えたら』とぼくはきっぱりした口調で言った。『天国へ行くには、まだちょっと早すぎるので』
 ぼくは女に恭しくおじぎをし、ブドウ売りに一礼すると、決然として小路を引き返した。少しばかり頭のおかしい男も、まだそこにいた。ぼくが前を通ると、男は陽気な声でたずねた。
『北極の光は見つかったかね?』
『いえ、夜の砂漠だけです。でも、もう喉は乾いていません』
『そいつはどういう意味だね?』
『おやすみなさい』ぼくは足を速めながら答えると、表通りに出た」
「少なくとも」とオーウェンは愉快そうに言った。「ユーモアのセンスはきみもなくしていなかったらしいな」
「そのときは、たしかにほとんど笑い出したいような気分だったよ。なにしろ滑稽な男だったから。でも、長くは続かなかった。ぼくは少し歩いたところで、煙草を吸おうと立ちどまった。ともかく気持ちを落ち着けたくて。煙草はポケットにあったけれど、ライターが見つからない。さっき赤いケープの女の前でライターを出したのだから、ぼろ家か路地のどこかでなくしたことになる。あのおかしな三人とまた顔を合わせるのは、あんまりうれしくなかったけれど、ライターは女友達からもらった大事な品だ。あんな場所に捨てていくわけにはいかないぞ。そこでぼくは、今夜最後の試練だと自分に言い聞かせながら、引き返すことにした。ところがそのとき、なんとも信じがたいことが起きたんだ……」
「狂人が正気に戻ったとか?」オーウェンはもの思わしげに言った。
「いや、路地が……消えていたんだ」
 しばらく沈黙が続いた。聞こえるのは、暖炉の火がぱちぱちと燃える音だけだ。やがてわが友がたずねた。
「よくわからないな」
「ぼくが出てきた路地クラーケン・ストリートは、消え去っていたんだよ。闇に吞みこまれたみたいにね。代わりに蟻のはいいる隙もない、レンガの高い塀がたっていたのさ」


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