2018/08/08 04:22

La Ruelle fantôme
—  登場人物  —

オーウェン・バーンズ       美術評論家、アマチュア探偵
アキレス・ストック        バーンズの友人で、本書の語り手

ラルフ・ティアニー        アメリカ人外交官
ジャック・ラドクリフ       逃亡犯
バジル・ベイカー         アル中患者
シルヴィア・ベイカー       バジルの娘
ジェレミー・スチール       司祭
リチャード・ヨーク        骨董屋
ピーター・ブラウン        ペンキ屋
リチャード・エヴァートン男爵   田舎暮らしの紳士
ヒーサー             エヴァートン男爵夫人、旧姓エリス
フリアーズ夫妻          エヴァートン男爵の友人
ゾエ・ペトロヴナ         ブルガリア出身のダンサー
ブリストル大佐          リンダル村の住人
ハーバート・ジャンセン卿     国会議員
マイケル・ジャンセン       ジャンセン卿の甥
ウェデキンド           ロンドン警視庁の警部

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1 旧友

 一九〇二年十月二十三日

 そのひんやりと湿った秋の晩、わたしは暖炉のかたわらに腰を落ち着け、オーウェン・バーンズがふるまってくれたすばらしいシングルモルト・ウィスキーを味わっていた。どんなに頑固な憂鬱や、ロンドンの厳しい気候も、これさえあれば乗りきれる。友人はさっきから、ひと言も口をきこうとしなかった。アパートメントの居間を行ったり来たりするものの、サイドボードの前を通っても、貴重な中国磁器のコレクションに目もくれない。これはよくない徴候だ。それに、窓からセント・ジェイズム・スクエアに投げかける暗い視線も気になる。
「なんだか、苛立っているみたいだな、オーウェン」とわたしは指摘した。
「これが苛立たないでいられるかい、アキレス。時はすぎるのに、なにも起こらない。大昔のミイラみたいに、ただここでぼんやりしているだけなんて、悲惨なことだと思わないか? ぼくたちはこんなことのために生まれてきたのかい? 人生をもっとたっぷり楽しむためでは?」
 人間、怠惰な生活を送ってもかまわないのだと、日ごろは熱心に主張しているくせに。わたしはひと言、そう言い返してやりたかったけれど、やめておいた。オーウェンが不機嫌なときは、触らぬ神にたたりなしだ。彼はべつに本気で人生を悲観しているのではない。哀れな論争相手を求めているだけなのだから。なにしろ論争や哲学論議にかけては、実に恐ろしい相手だ。それにその晩、わたしは闘技場に乗り出すには、あまりに疲れていた。餌食を求めて檻のなかでうろつきまわるライオンの前に、両手両足を縛られて投げ出されるなんてまっぴらだ。
 だいいち、猛烈な不機嫌の理由はわかっている。オーウェンはしばらく滞在していたフランスのコートダジュールから、ちょうど戻ってきたところなのだ。彼はかの地で、地中海の穏やかな気候と明るい光をたっぷり楽しんできた。何か月も国を出ていた理由も想像がつく。三か月前の《混沌の王》事件で、キューピッドから残酷な恋の矢を放たれた彼は、心の傷を癒そうとしたのだろう。あの事件にはわたしも関係していたけれど、奇怪な状況のもとで繰り広げられた悲劇について、ここではあらためて触れないでおこう。記録はすでに手帳に書きとめてある。ただわたしがオーウェンと知り合ったのは、あのときがきっかけだったことは、再度お話ししておきたい。わたしは生まれ故郷の南アフリカを離れ、イギリスに着いたばかりだった。そのとたん、彼のエキセントリックな個性に衝撃を受けることとなった。凝りに凝った服装。人々の注意を引きつける物腰。ほんの少しでも美しいものを目にすれば、これ見よがしに感動して見せるやりかた。どれもこれも、呆気にとられるようなことばかりだった。ある日のこと、彼はリージェント・ストリートを飛ばしてきた馬車を、命がけで止めた。その理由がなんと、道を渡っていた少女がスミレの花束を落としたからだというのだ。美しいスミレが馬車に押しつぶされるのは、見るに忍びないと。美の追求こそわが存在理由だ、というのがオーウェンの言い分だった。しかも彼の探求は、いささか度はずれた領域にまでおよんだ。オーウェンによれば、殺人も巧妙で想像力に富んでいるならば、立派な芸術作品だというのだ。この特異な芸術に対する彼の感性たるや、じつに鋭いものがある。それが効を奏し、オーウェンはしばしば犯人の正体を暴くにいたった。ロンドン警視庁も彼には一目置き、ためらわずその助力を乞うていた。
 わたしと同じくオーウェンも、そろそろ三十になろうかという歳だった。けれども、わたしほど肩は張っていない。ほっそりとした長身で、堂々たる風貌をしている。顔つきは若々しく、やや重たげな瞼の下の物憂い目には、ときおり皮肉っぽい光が宿った。けれどもその晩、目と目が合うたび、ぼくを見返すのはただひたすら不愛想で苛立った視線だった。
「ロンドンはこともなしか」とオーウェンはつっけんどんに続けた。「はっきり言って、この町は倦怠と悲哀の申し子だな。世界中の幽霊がここで余生をすごそうと集まって来るのも、故なしとはしないさ……」
「議論をぶっかけるつもりはないけれど、前にきみの口から逆の意見を聞いたような気がするんだが。われらが陽気な首都の美点について、一席ぶっていたじゃないか。だいいち、こともなしっていうのは正確じゃないぜ」ぼくはそう言って、大箱のうえにあった《ガーディアン》紙にちらりと目をやった。「最新ニュースには、もう目をとおしたかい?」
 オーウェンは威厳たっぷりに軽蔑の笑みを浮かべ、首を横にふった。
「でも、夕方ぼくがここに着いたとき、あたりに警察の呼子が鳴り響いていたのをきみも聞いただろ?」とぼくはたずねた。
「あんな耳ざわりな大合奏は、嫌でも聞こえてくるからね。町中を不安がらせたいなら、もっとましな方法があるだろうに」
「冗談なんか言っている場合じゃないぞ」ぼくは横柄なしぐさで新聞を指さした。「今朝、ジャック・ラドクリフが脱走したんだ。警察は全力を挙げて、行方を追っている。きみの家へ来る前に聞いたところでは、この近くで姿を目撃されたらしい。ジャック・ラドクリフの名前には、覚えがあるだろう?」
 オーウェンは《ガーディアン》の第一面にでかでかと載っている逃亡犯の写真に、恩着せがましく目をやった。
「だって三年前にやつが逮捕されたのには、きみも貢献してたんだからね」
 オーウェンは肩をすくめた。
「ぼくの貢献なんて、ほんのわずかさ。単純な推理によって、あいつの隠れ家を警察に教えてやっただけだ。いつもなら、あんな野蛮な犯罪には関わらないんだが」
「そこさ、ぼくが言っているのは。きみのおかげで、あの危険な犯罪者の凶行を防ぐことができたんだ」
 オーウェンはしばらく考えていたが、頭の具合を心配するかのように、ぼくをじろじろと見つめた。
「逃亡中の凶悪犯……そんなものが大事件だとでもいうのかね? 注目に値する事件、ぼくほどの犯罪学者が興味を抱くような事件だとでも? 冗談はたいがいにして欲しいな、アキレス」
「冗談だなんて、とんでもない。あの男は危険人物だ。凶器を手に、何件もの強盗事件を犯しただけでなく、すでに人殺しも……」
「誰を殺したっていうんだ? 日ごろの意趣返しに、自分と同じようなごろつきをひとり、殺しただけじゃないか」オーウェンは吐き捨てるようにそう言うと、新聞を手に取ってラドクリフの写真をまじまじと見つめた。
 まだ若い男の顔は、おせじにも写真うつりがいいとは言えなかった。ひげのない、つるんとした頰。左右離れた、色の薄い目。我の強そうな顎。それでもにっこり微笑んでいれば、ハンサムな若者を想像できるだろうが、短く刈った黒髪と、撮影のどぎつい照明のせいで表情が険しさを増し、残忍そうな目つきが強調されている。
「どうしてぼくが当時、この男に興味を持ったかわかるかね?」オーウェンはしばらくすると、そうたずねた。「それはもっぱら、この顔のせいなんだ。あのころ新聞に載っていた写真では、どちらかというと感じがよさそうだった。ある男を連想させる顔でね。たんに外見が似ているってことから、ぼくは記事を読み始めた」
「そうやってきみは、やつが隠れている場所を言いあてることができたのか!」
「ぼくの手柄でもなんでもないさ。手がかりはすべて、すぐそこにあったんだから。あとは初歩的な推論にとりかかりさえすれば、誰にだって……」
「誰にだって、あの男が危険だってことはわかる」ぼくはきっぱりとそう続けた。「とりわけ、きみにとってね。よく考えてみろよ、オーウェン。やつにすりゃ、逮捕されたのはきみのせいなんだから、ひどく恨んでいるはずだ。監獄にぶちこまれていたあいだずっと、きみに対して悪意をつのらせていたはずだ。それに今晩、警察がやつをこの界隈まで追いつめたのも、ただの偶然じゃないだろうよ……」
 友人はじっと考えこんでいた。その目に不安の色が宿り始める。
「きみの話にも、ときには納得させられることがあるな。少なくとも、ぼくが鍛えてやった成果は出ているようだ」
 オーウェンはそう言って窓に近寄ると、夜の町を見つめた。
「いやなに」と彼は続けた。「やつは今ごろ、とっくに捕まっているだろうよ。ここ二、三時間、なにも聞こえないからね(オーウェンは窓をあけた)。ほら、あたりは静まり返っている……」
 とそのとき、オーウェンの言葉を否定するかのようにビッグベンの鐘の音が響きわたり、十一時を打った。鐘が鳴り終えると、あたりに静寂が戻った。今夜の湿った空気のように、冷たく染み入る静寂だった。
 ぼくは思わずぶるっと震えながら、こう指摘した。
「ジャック・ラドクリフが捕まったとは限らないぞ。単に追手をまいただけかもしれない。そもそもやつは、警察の包囲網を巧みにくぐり抜けることで有名だったからな」
 オーウェンはあいかわらず窓の外を眺めている。
「こんな共犯者がいたんじゃ、ありえないことではないな」
「共犯者って?」
「ほら、外を見てみろ。泥棒や人殺したちの女神がいる。彼女がいなければ、犯罪者どもはみな、商売替えをするはめになるだろう。彼女にがっちり守られていなければ、その黒いビロードの垂れ布があたりを包みこんでいなければ」
 こういう持ってまわった比喩表現をするところが、わが友人の数ある悪癖のひとつだった。思わずむかっ腹が立ってきたけれど、ぼくは語気を荒げないようじっとこらえた。
「いったいぜんたい、何者の話なんだ?」
「もちろん、暗闇のことさ。夜ごと、われわれの頭上にかかる黒い汚泥、犯罪や悪行を隠す暗い雲。暗闇こそ悪を助ける完璧なる共犯者、光と真実の大敵なんだ。それに、どうしてかはわからないが、ロンドンはほかの町より暗いような気がする。闇が町を包む。一寸先も見えない闇、石炭の粉みたいに黒々とした闇が。闇は手あたりしだい、なんでも飲みこんでしまう。われらがよるべなき魂までも。それは通りに並ぶガス灯のあわれな火口、小さく震える青白いマッチの火、不安げに背中を丸める見張り番かもしれない。哀れな魂たちは必死に闘い、闇の攻撃を押しのけようとするものの、はなから勝つ見込みなどないかのように、次々にあきらめ屈していく……」
「おいおい、オーウェン。ぼくを怖がらせて、楽しんでいるのか?」
「とんでもない。ただどんな危険があるかもしれないから、心構えはしておかないと。さっき、きみが忠告してくれたようにね。さらに霧も加わった日には――こいつはわが国の、災いの種だ――最悪の事態を覚悟しなくては。深い霧だけでも、血を好む異常者を刺激するには充分さ。間違いない。やつらの忌わしい所業は、今でもみんなよく覚えているはずだ。いいかい、《ナイフで切れるほどの濃霧》なんていう表現があるのも、宜なるかなだ」
「オーウェン」とぼくはため息まじりに言った。「そんなふうに脅かされたら、きみのすばらしいスコッチをがぶ飲みすることになるぞ。忘れちゃ困るな。ぼくはこれから、自宅に帰らねばならないんだから」
「思うぞんぶん、泥酔するがいいさ、アキレス。酒は百薬の長だからな。それに夜道を帰る気力も湧いてくる。なんなら、馬車を呼んでやってもいいがね。だが、われらが親愛なる霧には、美点もたくさんある。それは詩と想像力の父なんだ。そうだろ?」
「霧に包まれるとものの形は和らぎ、冷たい巨大建築も人間らしくなる。景色は美しさを増し、光の輝きは際立つ。ざっとそんなところかな。ああ、わかっているさ。きみにさんざん聞かされたから」
「でも、それだけじゃないんだ、アキレス。ぜひ、知っておかねばならないのは……」
 けれどもオーウェンはそこで言葉を切り、さっと窓をふり返った。ばたばたと走る足音と呼子の音が、外で響いている。ぼくはびっくりして、一瞬わが友を見つめた。足音と呼子の音は、どんどん大きくなってくる。けれども窓からは、大したものは見えなかった。街灯のぼんやりとした光に照らされ、人影がいくつか全速力で走りまわっているだけだ。どこにいるのかわからない獲物を追って放された、騒がしい猟犬の群れのようだった。頭ごなしに命令する、大きな声も聞こえる。
「おい、なにをぐずぐずしてるんだ。逃げられるぞ」
「遠くには行っていないはずです、隊長。すぐそこを、走り抜けました」
「捕まえたら、絶対に放すなよ……」
「ちくしょう、どこにいるんだ。もう、見えません」
「あっちに逃げていったはずだ……」
 騒がしい大捕りものの一群が遠ざかると、オーウェンは不安げな目をしてぼくをふり返った。
「どうやらジャック・ラドクリフは、まだ逃げているようだな」
「言ったとおりだろ」
「ともかくこんなに追いかけまわされたんじゃ、やつももうくたくただろう」
「警察もね」
「たしかに。ここはひとつ、彼らのために乾杯といこう。どうだね、アキレス」
「いいとも。彼らというのは、警察に限るけれど」
 グラスを満たすと、わたしたちは暖炉のわきに腰かけた。オーウェンは、またしてもなにか考えこんでいる。
「アキレス、きみもよくわかっているだろうが、ぼくには弱い者、虐げられた者を守ってやりたくなる、生来の性向があるんだ」
「話の行き先は想像がつくけれど、そうなるとぼくにはついていけそうもないな」
「追いかけられている獲物の立場に、少しでもなってみろよ。猟犬どもから逃れようと、息を切らして走っている獲物の立場に……」
「言いたいことはわかるさ。でも、やつが犯した悪事の数々を忘れるわけにはいかないな。それにもしやつが捕まらなかったら、この先どんな悪事を重ねることやら」
「暗闇のなかでひとり、汗びっしょりで喘いでいることを想像してみろ。追手の足音が歩道に響いている。まるであとを追いかけてくる、怒り狂った水牛の群れのように。その足音は湿ったアスファルトに重く響き……」
 そこでオーウェンはまたしても言葉を切ると、耳をそばだてた。つい今しがた、階段で足音がした。それが彼にも聞こえたのだ。ぼくは背中がぞくっとした。入り口のドアがどんどんと乱暴に叩かれたときは、さすがに心臓が飛び出しそうになった。訪問者はなかに通されるのを待ってはいなかった。オーウェンが不用心にも鍵をかけていなかったものだから、勝手にドアをあけてずかずかと部屋に入ってくる。男は取り乱したようすでぼくたちの前に立ち、グレーハウンドみたいにはあはあと大きく息をした。額には汗をしたたらせ、目つきは異様だった。歳のころは三十前後で、背丈は中くらい。マリンブルーのロングコートを着て、髪の毛を短く刈っている。《ガーディアン》紙にあらためて目をやるまでもなく、闖入者の顔が写真と同じだとわかった。
 恐怖で胃が締めつけられた。オーウェンは火かき棒をつかむと、こう叫んだ。
「ジャック・ラドクリフだな!」

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